静岡市の中心に位置する二重の堀と美しい石垣に囲まれた、静岡市民憩いの場。かつて徳川家康が築城、余生を送った駿府城の跡で、駿府藩の藩庁。府中城や静岡城とも呼ばれています。日清戦争後の明治29年から終戦まで、静岡歩兵第三十四聯隊の兵営があった場所で、昭和24年から公園として開放されています。
東海道の要衝を家康は隠居の城に定めた!
駿府とは、駿河の府(都)の意。
駿府城に府中城との呼び名があるのもそのためです。
静岡という地名は明治2年に府中では全国にあるからという明治政府の指導で、賤機山(しずはたやま)に由来する賤ヶ丘(しずがおか)から付いた名前。家康は知らない名なのです。
戦国時代の駿府には今川氏の居城である今川館が置かれ、甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏と同盟を結び領国支配を行なっていました。その後、武田氏の駿河侵攻により今川氏は滅亡し、今川氏の居館も失われています。
関ヶ原合戦翌年の、1601(慶長6)年2月、徳川氏譜代の家臣・内藤信成(ないとうのぶなり/徳川家康の異母弟、信成の「信」は若き家康の名、松平元信から)が4万石で駿府城に入り、駿府藩が成立。
1606(慶長11)年、内藤信成を近江・長浜城(現・滋賀県長浜市)に移し、家康が駿府城を隠居の城とし、3重の堀を持つ輪郭式平城、さらには天守を天下普請(てんかふしん=諸大名参加の築城工事)で築きました。
創建当初の天守は、石垣天端で55m×48mという城郭史上最大のもので、天守台の外周を隅櫓・多聞櫓が取り囲む実戦的な構造となっていました。
駿府城は、家康の隠居所でしたが、名目上は、1609(慶長14)年に駿府藩主となった徳川頼宣(とくがわよりのぶ/徳川家康の十男、後に紀州藩主となり紀州徳川家の祖)による駿府藩50万石の藩庁として築かれています。
駿府城公園は、駿府城の本丸、二の丸
明治29年、静岡市が誘致した静岡歩兵第三十四聯隊の兵舎建設の際に外堀の三分の一と本丸堀(内堀)は埋め立てられており、建物は破却されています。
駿府城公園として整備されるのは、駿府城の本丸と二ノ丸。
現在は二の丸東御門と巽櫓(たつみやぐら/二の丸の東南角に建てられた三層ニ重の隅櫓)、さらには二ノ丸坤櫓(ひつじさるやぐら)が日本古来の伝統的在来工法で復元されています。
昭和44年に堀底から発見された鯱は、1635(寛永12)年11月29日の火事で堀に崩落した東御門の鯱と推測されています。
公園の中央には、徳川家康の銅像も立ち、銅像の横にある「家康手植えのミカン」は、慶長年間に紀州徳川家から家康に献上された鉢植えミカンを家康が駿府城本丸内の紅葉山庭園に植えさせたもの。
ツツジの公園としても知られており、5月上旬から下旬にかけて、約1万本のツツジがいっせいに咲き揃います。
また公園内には、4つの異なる趣向を凝らした日本庭園と、本格的な茶室を備えた「紅葉山庭園」があり、庭園を眺めながらお茶をいただけます。
ただし、残念ながらこの庭園、往時の紅葉山庭園(大名庭園)の復元ではありません。
駿府城の御殿は小堀遠州の担当!
諸大名にとって駿府城の天下普請(諸大名参加の建築)に参加することは、家康に忠義を示すチャンスとなったので毛利輝元、前田利家らも普請に参加しています。
家康は毎日工事現場に顔を出すという熱心さで終の棲家を見極めています。
ちなみにもっとも肝心な御殿の設計は、小堀政一。
実はこの普請の成功により遠江守に任ぜられているのです。のちに建築・造園の名手といわれる小堀遠州、まさにその人だったのです。
当初の御殿と天守は、完成直後の1607(慶長12)年、城内の失火で焼失。
1610(慶長15)年、中井正清が大工棟梁として腕をふるって再建しています。この中井正清、関ヶ原の戦いの後、徳川家康に作事方として仕え、二条城、名古屋城、江戸城、知恩院、駿府城の天守、江戸の町割り、日光東照宮、久能山東照宮、方広寺など徳川家ゆかりの城や寺社の建築を担当しています。
駿府城(駿府城公園) | |
名称 | 駿府城(駿府城公園)/すんぷじょう(すんぷじょうこうえん) |
所在地 | 静岡市葵区駿府城公園1-1 |
関連HP | 駿府城公園公式ホームページ |
電車・バスで | JR静岡駅から駿府浪漫バスで15分、東御門下車 |
ドライブで | 東名高速道路静岡ICから約4.5km。または、新東名高速道路新静岡ICから約9km |
駐車場 | 市民文化会館地下駐車場(246台/有料、入庫は8:30~21:00) |
問い合わせ | 駿府城公園二の丸施設管理事務所 TEL:054-251-0016/FAX:054-251-0056 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |
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