松山城

松山城

愛媛県松山市街の中心、標高131.4mの勝山に建つ松山城は、秀吉の家臣で賤ヶ岳合戦の「七本槍」の一人、加藤嘉明(かとうよしあきら)が25年の歳月を費やし寛永4年(1627年)に築城した平山城。天守など21棟が現存し、国の重要文化財に指定されています。日本100名城、日本の歴史公園100選、日本さくら名所100選に選定。

攻守にすぐれた連立式平山城

松山城
松山城

関ヶ原の合戦で東軍に与して武功を遂げた加藤嘉明は、慶長6年(1601年)、家康に勝山城(後の松山城)建築の許可を得て、翌年より築城を開始。
慶長8年(1603年)、嘉明は本拠地を正木から勝山に移し、地名を松山と改名しています。
江戸城修築、駿府城修築、篠山城築城、名古屋城造営などの天下普請(てんかぶしん)に参加し、松山城の完成には多くの時間を費やしています。

当時、伊予の西側には藤堂高虎(とうどうたかとら)がいて、築城の名手ふたりが競うように城を築いたことになります。

寛永12年(1635年)、伊勢国(現・三重県)の桑名城主・松平定行が松山藩15万石に封じられ、以降、松平家が14代続いて明治維新を迎えています。

現存する天守は、幕末の安政元年(1854年)再建のもの。
本丸、二之丸、三之丸など、城を中心として、51.8haもの広大な城山公園として整備され、三層の天守からは、松山市街地はもちろん、石鎚山(いしづちさん)から伊予灘までが一望のもと。

重要文化財の野原櫓は、日本で唯一現存する望楼型二重櫓で天守の原型を今に伝えています。

ロープウェイ・リフトと徒歩による登城が可能

山麓から山腹の長者ヶ平までは松山城山ロープウェイ、松山城山リフトが運行していますが、徒歩での登城ルートを使っても20〜30分ほど。

現在の登城口は、ロープウェー街東雲口登城道、県庁裏登城道、黒門口登城道、古町口登城道の4ルートで、そのうち江戸時代の正規の登城は、黒門口登城道から大手門を経由するもの。
各登城口は徒歩のみとなるのでご注意を。

NHKの大型ドラマ『坂の上の雲』(平成21年〜平成23年)では、主人公・秋山真之(あきやまさねゆき/本木雅弘、幼少期=小林廉)がガキ大将だった時代に、実際に筒井門下の石垣を登って仲間を驚かせたことがあることから、松山城の石垣がロケ地にもなっています。

松山城
松山城
名称松山城/まつやまじょう
所在地愛媛県松山市丸之内1
関連HP松山城公式ホームページ
電車・バスで伊予鉄道城南線大街道駅から徒歩5分
ドライブで松山自動車道松山ICから約6km
駐車場松山城駐車場(20台/有料)・松山市役所前地下駐車場(290台/有料)
問い合わせ松山城総合事務所 TEL:089-921-4873/FAX:089-934-3417
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

日本100名城 四国9城

四国には往時の天守が現存する「現存12天守」のうち、4城がある、現存天守密集地域。四国というように4国(4県)なのに、日本100名城に選定される城の数は倍以上の9城。とくに愛媛県には多く、5城が選定されています。1県で5城は長野県、兵庫県と

愛媛県七大名城

愛媛県七大名城とは!?

名城の多い愛媛県ですが、今治城(今治市)、湯築城(ゆづきじょう/松山市)、松山城(松山市)、大洲城(大洲市)、宇和島城(宇和島市)が日本100名城、能島城(今治市)、河後森城(かごもりじょう/松野町)が続日本100名城に選定。以上の7城が愛

日本三大平山城

日本三大平山城とは!?

平野部にある山、丘に築かれた城が平山城。織田信長が築いた安土城が最初とされ、姫路城(兵庫県姫路市)、津山城(岡山県津山市)、松山城(愛媛県松山市)が日本三大平山城と称されていますが、和歌山城(和歌山県和歌山市)、姫路城、松山城は、日本三大連

松山城山ロープウェイ・リフト

松山城山ロープウェイ・リフト

愛媛県松山市、標高132mの勝山山頂に建つ松山城。勝山は全体が城山公園として整備されていますが、山麓と山上の天守(現存12天守)などの城郭群を結ぶのが、松山城山ロープウェイ・リフト。面白いのはリフトとロープウェイが並行して架けられている点。

松山城二之丸史跡庭園・大井戸遺構

伊予松山藩2代城主・蒲生忠知(がもうただちか)の治世(1627年~1634年)に完成下と伝えられる二之丸。政庁である表御殿と、藩主やその家族の生活の場である奥御殿に分かれていましたが、表御殿跡にあるのが大井戸遺構。生活用水というよりも防火用

松山城二之丸史跡庭園

伊予松山藩2代藩主・蒲生忠知(がもうただとも)が築いた邸宅跡を庭園としたのが松山城二之丸史跡庭園。絵図を基に、邸宅の間取りと庭園を再現しています。松山城は、山上にあり、太平の世には不便であることから、伊予松山藩の政庁としての役割を果たした表

松山城・北隅櫓 南隅櫓

松山城の天守の建つ本壇(天守曲輪)の西端、高石垣の上に連続して建つ棟。南北に隅櫓が配され、その間を十間廊下が繋いでいます。北隅櫓は、北隅櫓は小天守北ノ櫓とか戊亥小天守、南隅櫓は申酉小天守とも呼ばれ、天守に次ぐ格式をもつ櫓となっています。本壇

松山城・十間廊下

十間廊下は天守の建つ本壇(天守曲輪)の西側を防衛する重要な櫓で多聞櫓形式。北隅櫓と南隅櫓を連結する通路にもなっていて、桁行が10間あることが名の由来です。天守西側の防備を担っており、石垣を登る敵兵に対して石を落とす石落しも配されています。十

松山城・野原櫓

松山城本丸、北西を守る乾櫓(いぬいやぐら)の東側に位置する櫓が野原櫓。乾櫓に次ぐ歴史を有する松山城創建当初に建築された櫓です。本丸の北面、北西面を守る櫓で、現存する日本で唯一の望楼型二重櫓となっています。石落しや狭間などの実戦的な構造も築城

松山城・仕切門

松山城の本壇(天守曲輪)、大天守北側に隣接する門が仕切門。北側の石垣の上には仕切門内塀が配されています。本壇内庭の北側の防備を固める高麗門で、天神櫓前の本壇広場に対する防備も担っています。ここを突破すると内庭(天守広場)の入口となり、北隅櫓

松山城・乾門

松山城本丸の搦手(からめて=裏口)に位置するのが乾門(いぬいもん)。乾とは方角を表す言葉で、北西の意。乾櫓と乾門東続櫓に守られるような構造で、搦手の門の中で、最も重要な門となっています。かつては、乾門の前に乾一の門がありましたが、今では失わ

松山城・乾櫓

松山城本丸の乾(いぬい=北西)を守るの隅櫓が乾櫓(いぬいやぐら)。天守の建つ本壇(天守曲輪)の西に位置し、乾櫓・乾門・乾門東続櫓で、大手の搦手(からめて=裏側)を守っています。石落しを設け、弾丸が壁を貫くことがないように壁の内部に小石や瓦を

松山城・天神櫓

松山城の天守が建つ本壇(天守曲輪)の東北に位置する櫓が天神櫓。卯歳櫓、東隅櫓とも呼ばれ、最終決戦に備え甲冑や鎧兜を保管する具足櫓だったもの。城主である松平家の遠祖にあたる菅原道真を祀ったため天神櫓という名が付いていますが、寺社建築の正面扉様

松山城・太鼓門

松山城の大手側登城ルートで本丸の筒井門をくぐった先の門が太鼓門。この先が天守の建つ本壇となります。西に太鼓櫓、東に巽櫓(たつみやぐら)が配された脇戸付の櫓門で続櫓が置かれ、太鼓櫓・太鼓門・太鼓門東続櫓・巽櫓と連続する強固な防御網を形成して、

松山城・筋鉄門

松山城の天守がそびえる本壇、三ノ門を越え右に曲がるといよいよ大天守西の中庭に通じる筋鉄門(すじがねもん/東向き)。南に小天守、北の大天守に連続という重要な櫓門で、天守玄関がある中庭を防衛する大切な場所です。天守玄関がある中庭を防衛する門天守

松山城・艮門

艮(うしとら)とは東北の意。松山城の本丸の東北に位置する門で、艮門東続櫓とともに本丸東面の防御の要。いざという時には大手(表側)や搦手(裏側)から迫る敵兵を奇襲するため、この門から兵を出撃させる役目も担っていました。NHKスペシャルドラマ『

松山城・一ノ門

松山城の天守の建つ本壇(本丸曲輪の天守が建つ中心部分)を守る門が一ノ門。西に向いた高麗門で、目の前(西側)には小天守が聳えています。門の南に一ノ門南櫓、門の北に三ノ門南櫓が配される防御態勢。二ノ門との間は枡形になっており、そこに突入した敵軍

松山城・二ノ門

松山城の天守がそびえる本壇。一ノ門をくぐり、9段の石段を上り左に折れると薬医門の二ノ門(南向き)が待ち構えています。つまりは二ノ門の名前のとおりにここが本壇二番目の門。二ノ門前の枡形(広場)は三ノ門南櫓、一ノ門、一ノ門南櫓、一ノ門東塀、二ノ

松山城・三ノ門

松山城の天守がそびえる本壇。強固な防御を誇る本壇ですが、二ノ門を過ぎると本壇の広場となり、登城道はここで左に屈曲して三ノ門となります。松山城・三ノ門は、北向きの高麗門(こうらいもん)で、西に大天守、南に三ノ門南櫓と筋鉄門東塀(すじがねもんひ

松山城・戸無門

松山城の大手門から本丸を目ざすと、坂を上り、本丸・太鼓櫓の高石垣下で登城ルートは屈曲して戸無門(となしもん)に出ます。本丸の大手入口の最初の門で、慶長年間の創建当初から門扉がないのでと戸無門という名があります。敵を防備の要である筒井門へ誘い

松山城・隠門

戸無門を通過して、まず目に付くのは筒井門ですが、実はその右手奥の石垣の陰に隠門が隠されています。敵兵の注意を筒井門に向け、堅牢な筒井門破ろうとする敵が難渋する隙に、隠門から将兵を出して敵軍の側面を奇襲する作戦。本丸防備の拠点となる門にわざわ

松山城・巽櫓

松山城の本丸の巽(たつみ=南東)の位置にある隅櫓が巽櫓(たつみやぐら)。太鼓櫓・太鼓門・太鼓門東続櫓・巽櫓と連続する本丸最強の防御ラインの一角で、本丸下の東側の監視とともに筒井門を突破し太鼓門に到達した敵軍の背後を攻撃できる位置に建てられて

松山城・紫竹門

松山城の小天守の南真下に位置し、天守の建つ本壇(天守曲輪)の搦手側入口(裏口)を守る脇戸の付いた高麗門(こうらいもん)が紫竹門(しちくもん)。北を正面とし、東塀・紫竹門・西塀という逆L字になった防御で大手(正面)と搦手(からめて=裏側)を仕

松山城・筒井門

松山城で三之丸、二之丸から本丸へ向かう途中、大手を固めるもっとも重要な櫓門が筒井門です。松山城の場合、二之丸と本丸は標高差で90mもあるという天然の要害になっています。いかにも堅牢そうな門は、松山城でも最大の門で、築城の際、加藤嘉明(かとう

松山城・太鼓櫓

松山城の本丸南西の櫓(やぐら)で戸無門下から見上げると石垣の上に屹立しているのが太鼓櫓。大手方面を一望する展望的な櫓で、いざという時に太鼓を鳴らしたのでその名があります。大手側を一望する防御の拠点は昭和48年の復元戸無門下から見上げる太鼓櫓

松山城・天守

往時の天守が残る全国現存12天守のひとつが松山城・天守で国の重要文化財。松山城は津山城(岡山県津山市)、姫路城と並び「日本三大平山城」に数えられますが、勝山(城山)山頂の本丸に位置するのが天守。創建当初は五重の天守だったと伝わりますが3代藩

よく読まれている記事

こちらもどうぞ