和田さんのルーツを探せ!

大姓59位の和田さんは、全国で25万人ほどの暮らしていて、シェアは0.20%ほど。輪のような田、あるいは神霊の加護で富み栄える「田」という意味の地形姓です。実は、日本の捕鯨は和田一族によって始められています。この和田一族のルーツは、三浦半島(神奈川県)にあるので、和田さんのルーツ探しはまずは三浦半島から。

和田さんのルーツは、三浦半島の三浦市にあり!



古来から、熊野灘沿岸は鯨の回遊ルートで、慶長11年(1606年)、太地浦(現・和歌山県東牟婁郡太地町)の豪族・和田一族の忠兵衛頼元が太地浦を基地として鯨方を組織し、突捕漁法による捕鯨を開始。
これが日本における捕鯨事業のルーツとなっています。

その捕鯨を事業的に始めた和田氏のルーツは、三浦半島を中心に勢力を伸ばしていた桓武平氏・三浦氏の一族である杉本義宗(すぎもとよしむね/平安時代後期の武将・三浦義明の嫡男)の子・杉本義盛が、領地である相模国三浦郡和田(神奈川県三浦市初声町和田)に住んで、和田義盛(わだよしもり)と称したことに始まります。

和田義盛は源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵に従い、また源範頼(みなもとののりより)の目付として多くの戦功を挙げ、鎌倉幕府が開かれると三浦一族の中核として初代侍所別当となって、頼朝を支えています。

その後、和田義盛は源範頼(みなもとののりより)に従って木曾義仲を討ち、続いて源義経に属して平家を壇ノ浦に滅ぼし、さらには、奥州の藤原国衛(ふじわらのくにひら)を破るという活躍ぶりで、和田義盛の領地は陸奥国遠田・名取両郡を始め、出羽、阿波、讃岐にまで拡大しています。

しかし、源頼朝没後の建暦3年(1213年)、御家人・和田義盛は執権・北条義時に対して戦いを挑んだ和田合戦(鎌倉で市街戦を展開)で、同族の三浦氏の裏切りにあって討ち死にし、一族はほぼ壊滅しています。

和田義盛の六男・和田義信(わだよしのぶ)は和田合戦で討ち死にというのが定説ですが、上野国(群馬県)に逃れたとも、阿波から熊野に逃れ、その子孫は太地へ移住したともいわれています。
それが事実なら、太地浦の捕鯨で活躍した和田一族も三浦半島がルーツということになります。
太地の和田氏は、 鎌倉時代から熊野の名族だったことから、別にルーツがある可能性もありますが、ひょっとすると三浦の和田氏が熊野へと逃れたのかもしれません。

和田氏のうち、和田義盛の甥である和田重茂(わだよしもち)は北条義時に与したため、その子孫は「三浦和田」と称して、中世に越後(新潟県)などに勢力を築いています。

和田さんのルーツとなる和田義盛の故郷は、神奈川県三浦市初声町和田。
和田義盛の屋敷があったとされる場所(大泉寺、安楽寺を含めた一帯)には、大正10年に「和田義盛の碑」(旧里碑)が建立されています。

「和田義盛の碑」(旧里碑)の西には、和田城跡があり、間違いなく、一帯が重要な和田さんのルーツとなっています。

和田城跡の案内板によれば、和田義盛は16歳の秋、父の死をきっかけに鎌倉の杉本城から和田に移り、このあたりに居館を築き、和田を名乗ったと記されています。
さらに和田館には木曽義仲の妾・巴御前が預けられて余生を送ったとも。

国道134号の和田交差点を目標に、アプローチを。

高崎も和田さんには重要な地

和田は古くは「にきた」、「にぎた」と読み、神霊の加護で富み栄える「田」の意味。

和泉国大鳥郡和田(大阪府堺市南区和田)を発祥とする紀直(あたい)族の和田首(おびと)や、河内国を発祥とする楠木氏と同族の橘氏流和田氏がいます。

また近江国からは、近江国甲賀郡和田を発祥とする清和源氏善積(よしづみ)氏流、近江国神崎郡和田(東近江市五個荘和田町)を発祥とする佐々木氏流、さらに同国には清和源氏高屋氏流の和田氏もいて、多彩。
ほかにも、熊野本宮社家、美濃国土岐氏流、藤原秀郷流、さらに千葉氏、奥平氏、小笠原氏、佐竹氏、高木氏、大江氏流などの和田氏がいます。

まずは、和田義盛の流れという上野和田氏の、かつては和田城と呼ばれていた高崎城(群馬県高崎市高松町)へ出掛けてみましょう。

高崎城の前身は、平安時代末に和田義盛の六男・和田義信が築いた和田城。

戦国時代になって永禄4年(1561年)、城主・和田業繁(わだなりしげ)は帰属していた長尾景虎(上杉謙信)に反旗を翻し、武田信玄に与し、その子、和田信業(わだのぶなり)は、織田氏の家臣の後、北条氏に属したため、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に、豊臣軍の攻撃を受けて和田城は落城しています。

現在の城跡は徳川家康の関東転封に伴って築かれた近世的な城。
徳川家康の命により井伊直政は、慶長2年(1597年)、和田城の城地に近世城郭を築き、入城に際し、「高崎」と名付けたもの。

高崎城跡には今も乾櫓、通用門として使われていた東門が移築復元され、お堀の周辺は桜の名所の高崎城址公園となっていて、見学するのにも最適です。

高崎城もそのルーツは和田城なので、和田さんにとっては重要な地ですが、関東では八王子市高月町にある高月城や滝山城、八王子城も和田氏との関係が深い城です。

高崎城址

群馬県高崎市街の中心部・高松町にあり、土塁や堀、復元された乾櫓(いぬいやぐら)と東門などが、往時をしのばせているのが高崎城址。前身は室町時代に和田義信が築いた和田城(和田さんのルーツにも)ですが、廃城になり荒廃。現在の高崎城址は、井伊直政築

岸和田は「岸の和田さん」が名の由来!

岸和田城
岸和田城

関西で重要なのは岸和田で、岸和田市の和田城跡には「和田氏居城伝説地」の碑が立っています。

和田氏の居館(岸和田古城)のあった場所は「和田氏居城伝説地」と称され、その場所が、現在の岸和田城跡の東側400m、岸和田駅の南側一帯、照日山(てるひやま=現・野田町1丁目)あたり。

実は、この岸和田、建武元年(1334年)、楠正成(くすのきまさしげ)の一族・和田高家(にぎたたかいえ=楠木正季の三男、楠木正成の甥)が、当時「岸村」と呼ばれていたこの地に城を築き、根拠地としたことから「岸の和田氏」、「岸の和田殿」と呼ばれ、岸和田の地名の起こりになったといわれているのです。

この説は、元禄13年(1700年)に石橋直之が書いた 『泉州志』に記されています。
このほか、和泉国大鳥郡和田(みきた)、現在の美木多(みきた=現・堺市南区美木多)を出自とする和田(みきた)氏が関係する説もありますが、いずれも「岸+和田=岸和田」説なので、岸和田は関西の和田さんにとっては貴重な土地なのかもしれません。

ただし、荻生徂徠(おぎゅうそらい)は「岸の湾」が岸和田となったと考えていますが、岸和田藩七人庄屋のひとりで『先代考拠略』の中盛彬は、この説を「おほひなるあやまりなめり」と一蹴し、南北朝時代に楠木正成一族の和田正武(わだまさたけ=出自に関しては諸説あり定かでありません)が岸に住んだため、「岸の和田殿」と称されたのが始まりとしています。

岸和田城

岸和田城

建武元年(1334年)、楠正成(くすのきまさしげ)が和田高家(にぎたたかいえ=楠木正季の三男、楠木正成の甥)に命じ、岸と呼ばれていた地に城を築いたのが岸和田城の始まり。和田氏はこの地を根拠地としたことから「岸の和田氏」と呼ばれ、「岸和田」の

関西を中心に全国に和田さんのルーツが点在

中山道の和田峠(黒曜石の産地として有名)の麓、信濃国小県郡和田村(中山道・和田宿/現・長野県小県郡長和町和田)にも和田さんは多く、建暦3年(1213年)に鎌倉・由比ヶ浜の和田合戦で討ち死にした和田義盛(わだよしもり)の末裔が住むと伝えられています。
それが証拠に、長和町和田の八幡社の祭神は、和田義盛なのだとか(『木曽名勝図会』などによる)。
もともと大宮社だったものが、天保3年(1832年)、和田神社と改称しています。

和田峠にはかつて和田義盛の刀石があり、それが現在、下諏訪の禅寺・慈雲寺に移されています。

史実では、由比ヶ浜の戦いで敗れ、和田一族は全滅とあり、和田一族戦没碑が立っていますが、一族のうちで脱出し、鎌倉街道を塩田平(「信州の鎌倉」)経由で、美ヶ原の麓、和田村へと落ち延びたのかもしれません。

神社としては、兵庫県神戸市兵庫区に和田神社があり、滋賀県大津市木下町の和田神社、長野県松本市の和田神社、さらには新潟県新潟市や鳥取県米子市にも和田神社があり、全国に鎮座しています。

寺は、篠山市今田町に丹波篠山の古刹・和田寺(わでんじ)が有名。
楠木氏の一族で河内国・富田荘を領有した一津屋城主・和田孫三郎正綱の菩提寺の安明寺(大阪府大阪市松原市天美北)には、楠木・和田氏の菊水の紋を刻んだ蟇股を持つ門が建っています。

和田さんは、関西から四国にかけて多く、高知県で大姓16位、和歌山県で20位となっています。

家紋は、三浦氏族は三つ引両や七曜、上野和田氏は三つ引両に檜扇 。
穂積氏流は横木瓜に左巴、裏菊、輪。橘氏流は花橘や菊。
ほかに月星、菱唐草、丸に隅立四つ目など。

取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です

和田さんのルーツを探せ!
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