日光東照宮

日光東照宮

徳川家康の遺言により徳川2代将軍・徳川秀忠が元和3年(1617年)に造営し、3代将軍・徳川家光が現在の形へと大改修(寛永の造替)を行なった徳川家康の霊廟が、栃木県日光市の日光東照宮。「日光を見ずして結構と言うなかれ」という言葉まで生まれた壮麗な建築群は、世界文化遺産「日光の社寺」の構成資産にもなっています。

社殿の彫刻総数はなんと5173体

徳川家康は、元和2年4月17日(1616年6月1日)、駿府城(現・静岡県静岡市)で75歳の生涯を閉じますが、遺言により当初は久能山に埋葬され、その1年後の元和3年3月15日、徳川家康の霊柩が久能山を出発、4月4日に日光山に到着し、日光山に遷座、日光東照社(現・日光東照宮)が竣工しています。
遺言で久能山から日光山への改葬は、まさに死後も江戸・関東を鎮守するという姿勢の現れと推測できます。

明治初年の神仏分離、廃仏毀釈以前は天海大僧正の進言を徳川秀忠が受け入れ、天台宗的な「権現」という神格化を採用し、東照大権現として神仏習合(本地仏は薬師如来)で祀られていました。
明治の神仏分離以前は、全山が日光山輪王寺の支配下にあり、東照大権現を祀る部分が日光東照社だったわけです。
そのため、本社(拝殿・石の間・本殿)が権現造りなど、社殿のなかには今も神仏習合が色濃く残されています。
創建時の大工頭は、徳川家康の作事方で、家康の命により二条城、江戸城、知恩院、駿府城の天守、江戸の町割り、久能山東照宮などにも参加している中井正清(なかいまさきよ)。

建物に施された色鮮やかな彩色や細部にまで施された彫刻、また豪華な天井絵といい見逃せないものばかり。
彫刻総数は5173体で、第1位は御本社(拝殿・石の間・本殿)の2468体、2位が唐門(御本社の入口)で611体、3位が陽明門の508体となっています。
つまりは陽明門から先にほとんどの彫刻があることになり、その重要性がわかります。

厩(馬屋)である神厩舎の三猿、左甚五郎作と伝わる東回廊・潜門(くぐりもん)の眠り猫や、江戸文化の巧みの技を結集した陽明門は世界的に有名。

陽明門、 東西回廊・潜門(眠り猫)、 唐門、 御本社(本殿・石の間・拝殿)、東西透塀(すきべい)の8棟は国宝。
五重塔、表門など34棟が国の重要文化財に指定。
壮麗な社殿群は世界文化遺産「日光の社寺」の中心的な存在になっています。

日光東照宮 歴史年表

年号(西暦)月日内容
慶長16年(1611年)3月天海が僧正となる
元和2年(1616年)4月17日徳川家康が駿府城で死去
 7月13日家康の神号が「権現」に勅定
 7月27日天海が大僧正となる
元和3年(1617年)2月21日徳川家康に東照大権現の神号を勅賜
 3月15日徳川家康の霊柩が久能山を出発
 4月4日東照大権現が日光山に遷座。日光東照社が竣工
 4月16日2代将軍・徳川秀忠が日光山へ到着、神位を東照社仮殿より本殿へ遷座
 4月17日日光東照社初の祭礼を斎行
元和4年(1618年)4月18日黒田長政が東照社に大石鳥居を寄進
元和5年(1619年)9月東照社の西側に常行堂、法華堂を移し、新宮(二荒山神社)を造営
元和8年(1622年)4月奥院宝塔(現・奥社宝塔)と石垣の造営が竣工
元和9年(1623年)4月17日大納言・徳川家光が日光社参
寛永2年(1625年)7月13日3代将軍・徳川家光が日光社参
 7月25日勘定奉行・松平正綱が日光道中に杉を植栽(杉並木誕生)
寛永5年(1628年)4月17日東照社13回神忌に大御所・徳川秀忠と将軍・徳川家光が日光社参
寛永11年(1634年)11月17日東照社の大造替に着工
寛永13年(1636年)4月10日東照社の造替が完成。神橋の造替。オランダ商館が東照社へシャンデリアを奉納
 12月21日朝鮮通信使が日光山へ参詣
寛永20年(1643年)7月26日朝鮮通信使が日光山へ参詣
 10月2日天海が江戸・東叡山延暦寺で没
 10月17日天海の棺が大黒山の廟所に埋葬
正保2年(1645年)11月3日東照社に宮号が宣下され、東照宮となる
慶安3年(1650年)12月17日酒井忠勝の寄進による五重塔が竣工
慶安4年(1651年)5月6日徳川家光の遺体が日光大黒山に埋葬
明和2年(1765年)4月17日東照宮150回神忌
文化12年(1815年)4月17日東照宮200回神忌
慶応元年(1865年)4月17日東照宮250回神忌
明治元年(1868年)4月26日政府軍が日光に迫り、東照宮の御神体が会津に遷座(10月26日に帰還)
 8月27日明治政府が日光山神領を接収
明治4年(1871年)1月9日栃木県令が二社一寺の分離を指令、東照宮・輪王寺・二荒山神社に分割
大正4年(1915年)6月3日日光山東照宮三百年祭
平成27年(2015年)5月17日四百年式年春季例大祭
日光東照宮
名称日光東照宮/にっこうとうしょうぐう
所在地栃木県日光市山内2301
関連HP日光東照宮公式ホームページ
電車・バスで東武日光駅から東武バス世界遺産めぐりで勝道上人像前下車、徒歩10分
ドライブで日光宇都宮道路日光ICから約3km
駐車場100台/有料
問い合わせ日光東照宮社務所 TEL:0288-54-0560/FAX:0288-54-0061
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
日本三大東照宮とは!?

日本三大東照宮とは!?

徳川家康は、隠居先の駿府城で没した後、遺言で久能山に葬られ、さらに日光に改葬されます。天海大僧正の意見が通り、東照大権現の神号が贈られます。最初に誕生した久能山東照宮と日光東照宮、そして生誕の地・岡崎城の鬼門封じとして創建された滝山東照宮が

日光東照宮・石鳥居(一の鳥居)

日光東照宮・石鳥居(一の鳥居)

日光東照宮参道途中、五重塔近くにあるのが石鳥居(一の鳥居)。日光東照宮創建(徳川家康日光改葬)の翌年、元和4年4月17日(1618年6月9日)の造営の明神鳥居。高さ9.2m、柱間6.7m、柱の直径(太さ)3.6mの石鳥居で、花崗岩製。筑前国

日光東照宮・御仮殿

日光東照宮・御仮殿

日光東照宮参道途中、一の鳥居の東側、日光東照宮宝物館近くにあるのが御仮殿(おかりでん)。御本社を修理する際に、祭神を一時的に遷すための御殿で、現存する建物は3代将軍・徳川家光の造営による寛永16年(1639年)の建立。国の重要文化財になって

日光東照宮・五重塔

日光東照宮・五重塔

日光東照宮の石鳥居(一の鳥居)脇にあるのが五重塔。慶安3年(1650年)、若狭小浜藩の初代藩主・酒井忠勝(さかいただかつ/4代将軍徳川家綱時代の老中・大老)が寄進したのが始まりですが、文化12年(1815年)に焼失。現存する五重塔は、文政元

日光東照宮・表門

日光東照宮・表門

世界文化遺産「日光の社寺」の構成資産で、二社一寺のひとつ、日光東照宮の有料エリアの入口が表門。門下の券売所で拝観券を購入し、表門から入退場します。自然の地形を生かして門の手前は階段。元和3年(1636年)、徳川家光の寛永の造営で創建された門

日光東照宮・三神庫(下神庫・中神庫・上神庫)

日光東照宮・三神庫(下神庫・中神庫・上神庫)

日光東照宮で有料エリアとなる表門をくぐった先、最初に見るのが三神庫。門を入った右手に下神庫(しもじんこ)、正面に中神庫(なかじんこ)、左手に上神庫(かみじんこ)が独立して建てられています。神庫とは祭礼に使う祭具を入れる倉の意。3軒とも国の重

日光東照宮・神厩舎

日光東照宮・神厩舎

日光東照宮の有料エリアの入口、表門を入ったすぐ左手にあるのが神厩舎。神馬(しんめ)をつなぐ厩(うまや)で、古来、猿は、馬の病を治したり、 馬の世話をするなどされているところから、長押(なげし)上には猿の彫刻8面が描かれ、人間の一生が風刺され

日光東照宮・三猿

日光東照宮・三猿

日光東照宮の神馬(しんめ)の厩舎(きゅうしゃ)である神厩舎の長押には、人間の人生を表す合計で16匹の猿が彫られています。そのうち、もっとも有名な猿が「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿(さんえん・さんざる)です。厩舎に猿が描かれるのは、猿が

日光東照宮・輪蔵(経蔵)

日光東照宮・輪蔵(経蔵)

日光東照宮のハイライトのひとつが陽明門ですが、その階段下にあるのが日光東照宮・輪蔵(経蔵)。元和6年(1620年)築の方形造の建物は国の重要文化財に指定されています。経典を収納しておくための蔵で、経蔵の内部には、八角形をした回転式の輪蔵が設

日光東照宮・唐銅鳥居(二の鳥居)

日光東照宮・唐銅鳥居(二の鳥居)

日光東照宮、陽明門への石段基部に立つのが唐銅鳥居(二の鳥居)。一の鳥居が石鳥居であるのに対し、二の鳥居は銅製。寛永13年(1636年)、つまりは3代将軍・徳川家光による寛永の大造営の際に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。扁

日光東照宮・御水舎

日光東照宮・御水舎

日光東照宮、陽明門へと上る階段の下に配されるのが御水舎(おみずや)。徳川家康が祀られる日光東照宮の神域中の神域に足を踏み入れる前に、手を洗い、口をすすぎ、心身を清めるための建物です。水盤は、元和4年(1618年)、肥前佐賀藩の初代藩主・鍋島

日光東照宮・廻転灯籠(逆紋の廻り灯籠)

日光東照宮・廻転灯籠(逆紋の廻り灯籠)

日光東照宮陽明門の上り口、鼓楼近くにあるのが廻転灯籠。寛永20年(1643年)、オランダ国(オランダ商館)からの奉納です。灯籠上部に取り付けられた葵の紋が上下逆さであることから「逆紋の廻り灯籠」と称されています。附(つけたり)・銅燈籠として

日光東照宮・蓮灯籠

日光東照宮・蓮灯籠

日光東照宮には江戸時代初期にオランダ商館から寄進された灯籠が、3基あり、いずれも陽明門の基部に配されていますが、そのうちのひとつが蓮灯籠。蓮灯籠というとお盆の灯籠などをイメージしますが、日本では見かけないスタンド型の灯籠で、寛永17年(16

日光東照宮・釣灯籠

日光東照宮・釣灯籠

日光東照宮の陽明門前にあるのが釣灯籠。オランダ王国が、オランダ商館を通じて3代将軍・徳川家光に献上した3基の灯籠のうちの1基で、附(つけたり)・銅燈籠として国の重要文化財に指定されています。寛永13年(1636年)、3基のうちでは最初に献上

日光東照宮・朝鮮鐘

日光東照宮・朝鮮鐘

日光東照宮の陽明門前にあるのが朝鮮鐘と通称される鐘が下がる鐘舎。すぐ横に巨大な鐘楼がありますが、朝鮮鐘は鐘舎に下がっています。寛永20年(1643年)、竹千代(後の4代将軍・徳川家綱)誕生の祝賀に朝鮮通信使が香炉、燭台、花瓶(三具足)ととも

日光東照宮・鐘楼 鼓楼

日光東照宮・鐘楼 鼓楼

日光東照宮・陽明門の前に東西に対称的に配置されているのが鐘楼と鼓楼(ころう)。明治初年の神仏分離以前、神仏習合時代の名残で、その名の通り銅鐘と鼓(太鼓)を収蔵しています。3間四方の方形で、入母屋風銅瓦葺き、基部は末広がりになった袴腰(はかま

日光東照宮・陽明門

日光東照宮・陽明門

日光東照宮参拝のハイライトの一つが国宝の陽明門。極彩色彫刻で覆われ、一日中見ていても飽きないということから「日暮御門」とも称されていますが、平成の大修理を終えて絢爛豪華な輝きが蘇っています。他の社殿と同様、3代将軍・徳川家光の命による寛永1

日光東照宮・東西回廊

日光東照宮・東西回廊

日光東照宮の陽明門の東西に伸びる、神域を守る全長220mの廊下が回廊。陽明門の東側の東回廊、西側の西回廊が対称的に備わり、見事な彫刻が施されています。屋根の下の長押(なげし)の上の部分に雲、胴羽目(どうはめ)の部分には花鳥と動物、腰羽目(こ

日光東照宮・神輿舎

日光東照宮・神輿舎

日光東照宮の陽明門をくぐって入った左手、西回廊に囲まれた内部に建つのが神輿舎(しんよしゃ)。春秋の渡御祭(5月18日、10月17日)に使われる、3基の神輿(しんよ=みこし)が収蔵される場所で、天井には狩野派の絵師が描いた天女の絵があります。

日光東照宮・祈祷殿

日光東照宮・祈祷殿

日光東照宮、陽明門をくぐった右手、奥宮への入口近くにあるのが祈祷殿(きとうでん)。寛永12年(1635年)に建てられた入母屋造、銅瓦葺きの建物で、国の重要文化財。上社務所ともいわれますが、結婚式や初宮詣、七五三詣、家内安全、商売繁盛などのご

日光東照宮・唐門

日光東照宮・唐門

日光東照宮の参拝で、陽明門をくぐると、いよいよ御本社(拝殿・石の間・本殿)ですが、その入口に建つのが国宝の唐門(からもん)。間口3m、奥行き2mと陽明門に比べると小さく感じられますが、東照宮でもっとも重要な御本社の正門です。御本社と同じ寛永

日光東照宮・坂下門

日光東照宮・坂下門

日光東照宮の拝殿前、祈祷殿横から徳川家康(東照大権現)眠る奥社への入口の門として寛永13年(1636年)に造営されたのが坂下門。後世に屋根の葺き替え、塗装、そして飾金具の変更はありますが基本的な形式変更がなく、創建当初の姿を残し、国の重要文

日光東照宮・眠り猫

日光東照宮・眠り猫

日光東照宮の本社(本殿・石の間・拝殿)を取り囲む東西回廊(国宝)のうち、東回廊に備え付けられた奥社へと続く潜門(国宝)の蟇股(かえるまた=梁の上でカエルの股のように下方に開いて荷重を支える部材)に配された彫刻が有名な眠り猫。左甚五郎(ひだり

日光東照宮・奥社

日光東照宮・奥社

日光東照宮は、徳川家康の廟所として築かれた神仏習合の霊山。まずは久能山に祀り、その後、日光山に改葬という家康の遺言を受け、天台宗の天海大僧正の主張(山王一実神道で祀る)で東照大権現として祀られましたが、その墓所が日光東照宮・奥社。坂下門から

よく読まれている記事

こちらもどうぞ