藤原さんは、歴史のなかに度々登場しますが、案外、身の回りには少ないはず。全国順位では55位、藤原さんは28万人、シェア0.22%といった感じです。佐藤、加藤など藤の付く名前は実は藤原さんがルーツなので、藤原氏からは400氏・1300万人の苗字が生まれているのです。
藤原一族のルーツは中臣鎌足です
佐藤、斎藤、伊藤、加藤、後藤、武藤、近藤、安藤、尾藤、遠藤、工藤、江藤、藤井、藤田、藤本、藤沢、藤岡といった苗字や、藤がつかない苗字でも藤原から出たものが多いので、藤原一族はすごい数になるのです。
そんな藤原一族で、意外にも少ない、正統派藤原さんのルーツを探す旅に出かけましょう。
飛鳥時代の天智天皇8年(669年)、大化改新の功労者・中臣鎌足(なかとみのかまたり)が大和国高市郡藤原(現・奈良県橿原市=藤原京跡)の地に因んで、臨終の際に天智天皇から藤原姓を賜り、以来、藤原氏は日本史上最大の有名氏族となるのです。
つまりは、全国の藤原さん400氏・1300万人のすべてが、藤原京が置かれた橿原市が「究極のルーツ」ということに。
藤原さんが伊勢で伊東、加賀で加藤、近江で近藤、遠江で遠藤と変化していきますが、大元はこの「飛鳥・藤原の宮都」ということに。
中臣鎌足の子・藤原不比等(ふじわらのふひと)は大宝律令、養老律令の選定などの功があり、その娘・藤原宮子(ふじあらのみやこ)は文武天皇の夫人となって聖武天皇を生み、もう一人の娘・安宿(あすかべ)姫は孝謙天皇を生んだ光明皇后となっています。
藤原不比等の4人の息子達、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)が、南家、北家、式家、京家という四家を成し、互いに競い合うことで藤原氏は巨大な勢力へと成長していったのです。
とくに北家は、藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)を生み、冬嗣の子・藤原良房(ふじわらのよしふさ)は、平安時代に皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就き、藤原北家全盛の礎を築いています。
後、藤原北家の藤原道長(ふじわらのみちなが)は娘5人を入内(じゅだい=内裏に参入すること)させ、後一条天皇、後朱雀(ごすざく)、後冷泉(ごれいぜい)の3代の天皇の外戚となり、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」の歌を詠んだというほどの栄華を極めているのです。
藤原さんの始祖、中臣鎌足ゆかりの地へ
藤原さんの始祖である中臣鎌足(藤原鎌足)は、死後、奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある多武峯妙楽寺(現・談山神社/たんざんじんじゃ)に祀られています。
長男で僧・定恵が唐からの帰国後の天武天皇7年(678年)、墓を摂津安威の地(阿武山古墳=大阪府高槻市奈佐原)から多武峰に移し十三重塔を造立したのが発祥。
阿武山古墳は、阿武山の中腹・標高約210mの尾根上にある古墳。
昭和9年、京都大学の地震観測施設建設の際に偶然発見され、棺内には、銀線で青と緑のガラス玉をつづった玉枕(たままくら)を用い、きらびやかな錦をまとった60歳ほどの男性の遺体が安置されていました。
金糸で刺繍した冠帽(かんぼう)を備えていたことから、被葬者として中臣鎌足が有力視されているのです。
藤原京の中心施設である藤原宮(ふじわらきゅう)のあったところが現在の藤原宮跡。
中国の都城制を模して造られた日本初の本格的な都城で、持統天皇が飛鳥から藤原の地に都を遷したのは持統天皇8年(694年)のこと。
大きさは、東西方向約5.3km、南北方向4.8kmで、平城京、平安京をしのぐ古代最大の都。
初めて「日本」という国号を使用したのも藤原京を発した遣唐使でした。
「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」として世界文化遺産の国内候補になっていますが、その構成資産の筆頭が、藤原宮跡(国の特別史跡)。
ルーツが国の特別史跡になっているのも、藤原さんくらいでしょう。
奥州藤原氏の遺跡も藤原さんの大切なルーツ
藤原氏は、その後も摂関家として宮廷貴族の大半を占めて存続していますが、鎌倉時代以降は姓の藤原ではなく、邸宅のある京の地名などから近衛、鷹司、九条、二条、一条という家名を名乗っています。
一方、野に下り武家となった藤原氏も。
藤原北家・藤原房前(ふじわらのふささき)の子孫・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)や藤原利仁(ふじわらのとしひと)がその代表といえます。
平安時代に奥州・平泉(現・岩手県西磐井郡平泉町)で栄えた奥州藤原氏は、藤原秀郷の子孫が豪族安倍氏の女婿となり、藤原氏4代の栄華を築いていますが、こちらの藤原氏も遺構が世界遺産に(世界遺産「平泉」)。
さすがは、藤原さんといった感じです。
藤原清衡(ふじわらきよひら)は平泉に最初院(後の中尊寺)を、藤原基衡(ふじわらもとひら)は毛越寺(もうつうじ)を再興。
そして、奥州藤原政権の政庁・平泉館(ひらいずみのたち)跡が、今にその跡を残す平泉町の柳之御所(柳之御所遺跡)です。
発掘調査で掘立柱建設跡や屋敷群跡、園池跡が出土。
現在のところ、柳之御所遺跡は世界遺産「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」からは外されていますが、一帯が藤原さんのルーツであることに変わりありません。
世界遺産に登録の毛越寺の浄土式庭園などとともに、藤原さんならぜひ訪ねてもらいたい場所です。
古代に埼玉から防人として派遣された藤原さんも
藤原氏の人物の中には、大同5年(810年)の薬子の変(くすこのへん)で自殺した藤原薬子(ふじわらのくすこ=藤原種継の娘で、平城天皇の寵愛を一身に受けて政治に介入、嵯峨天皇との対立で、平城上皇は平城京に戻って剃髮し、藤原薬子は自害)、海賊の棟梁となり、瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こした藤原純友(ふじわらのすみとも)、『蜻蛉日記』(かげろうにっき)の藤原道綱母、『新古今和歌集』の藤原定家(ふじわらのていか)などがいて、日本史の多方面に顔を出しています。
もちろん、現在の藤原さんは残念ながらこうした古代藤原氏直系の苗字だけではなく、藤原部(ふじわらべ)から起ったものや、各地の藤原という地名から起った藤原姓も多数あるのが現実です。
筑紫に防人(さきもり)として派遣された藤原部等母麻呂(ふじわらべのともまろ)は武蔵国埼玉郡の人。
「足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも」(『万葉集』第20巻=足柄の峠に立って袖を振れば、家にいる妻ははっきりと見てくれるだろうか)の歌を残していますが、天平勝宝7年(755年)に防人を派遣する際、諸国より選ばれた壮丁(そうてい=成年男子)が父母妻子と惜別の情を歌ったものです。
埼玉県行田市藤原町1-27-2の八幡山公園にはこの歌碑が立っていますが、春日神社、大御田などの地名から、この地を藤原部等母麿の遺跡と推定し、昭和36年5月1日に八幡山古墳に隣接して歌碑を建立したもの。
八幡山古墳は横穴式石室が露出し、関東の石舞台とも呼ばれています。
一帯は藤原町で、埼玉県周辺に代々住んでいる藤原さんなら、ひょっとするとここがルーツなのかもしれません。
藤原氏の氏神・春日大社に参拝を!
藤原氏の氏神は世界文化遺産「古都奈良の文化財」の春日大社(奈良市春日野町)と、河内国一之宮の枚岡神社(ひらおかじんじゃ/大阪府東大阪市出雲井町)。
枚岡神社は、中臣氏の祖の天児屋根命を主祭神とする中臣氏の氏神で、「元春日」とも。
春日神は藤原氏の氏神ですが、同時に平城京鎮護の守護神でもあったのです。
そして氏寺は神仏習合時代には春日大社と一体化していた興福寺(奈良市登大路町)です。
鹿が遊ぶ広大な奈良公園は、かつての興福寺の境内なので、奈良はまさに藤原さんの故郷といってもいい場所です。
中臣鎌足(藤原鎌足)を祀るのが談山神社(奈良県桜井市多武峰)ですが、この地は『大化の改新』の起源となる飛鳥・法興寺で行なわれた蹴鞠会で極秘の談合が行なわれた場所。
まさに「その時、歴史が動いた」場所が、談山神社というわけです。
藤原さんならぜひ氏神と氏寺は抑えておきましょう。
そして世界遺産「古都奈良の文化財」ということで、またまたルーツが世界遺産に。
藤原さんは中国地方と東北に多い
藤原さんは中国地方(岡山県で大姓3位、島根県で4位、兵庫県4位、広島県で15位)と、東北(秋田県で13位、岩手県で15位)に多いのが特長。
青森県だと418位なので、さずがは奥州藤原氏の故郷・岩手県といった感じです。
ルーツの中のルーツ、奈良県は案外少なくて88位(およそ2600人)となっています。
埼玉県も意外に少なく、170位(およそ7500人)。
有名人でいえば、藤原紀香(ふじわらのりか)が兵庫県西宮市出身。
俳優の藤原竜也(ふじわらたつや)は埼玉県秩父市の生まれ。
お笑い芸人・藤原一裕(ふじわらかずひろ)は、奈良県生駒市出身です。
代表家紋は藤紋、近衛家が牡丹。
ほかに、笹竜胆、菱など。
なお、武家の藤原一門の家紋は、美濃斎藤氏は撫子(なでしこ)、関東上杉氏は竹に雀、下野の宇都宮・小山・結城氏は巴、伊豆の曽我・工藤氏は庵に木瓜、伊東氏は月星と庵に木瓜、ほかに、富樫氏は八曜、吉川氏は三つ引両、山内氏は三つ柏、少弐(しょうに)氏は寄り懸目結、大友氏は杏葉(ぎょうよう)、竜造寺氏は日足、菊地氏は鷹の羽など。
取材・編集協力/札場靖人(家紋と姓名研究家)
人口に関するデータは明治安田生命全国同姓調査による(2018年7月)推計値です
藤原さんのルーツを探せ! | |
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